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2.類似のなかの異質
(2)移動性-焼畑-
東南アジアの稲はしばしば焼畑で耕作されていた。焼畑というのは、立木を切って乾燥させ、それに火を点けて耕地を確保した上で、穴開け棒で穴をあけて、種籾を播いていくのである。収穫はたいてい実った穂先を刈り取る方法で行なう。そして、次の年には、また新しい土地で同じ方法で栽培を行なうのである。放棄した耕作地には灌木が茂ってまた林ができる。何年かのちにはこの土地に戻ってくるのが通例だが、人口増加に応じて集団の一部が絶えず新しい土地をめざすという図式も成立する。
東南アジアの水稲耕作がすべて焼畑というのではない。今日実際には水田が大部分を占めているのである。その水田をよく見ると、焼畑との連続性が明らかになってくる。タイ国のチャオプラヤーデルタにはアユタヤという古い都の跡があるが、その付近では、浮き稲が栽培されていた。浮き稲というのは、洪水による増水とともに背丈が伸びる種類の稲で、植え付けと収穫以外には格別の作業もない。また、インドネシアのスマトラでは、減水期稲をみることがある。これは、沼地などが雨期が終わり乾期が進行するにつれて、水が浅くなっていくのを追いかけるように、水が逃げないように畦というか、いわば低い堤防のようなものを造りながら稲作を行なうのである。さらにいえば、これらの他に、堰、用水路などの潅漑設備をもたない天水田が至る所に見られたのである。要するに雨さえ十分降れば、稲作が可能だったのである。農業は定着性をキーワードとして含むが、この世界では、農業さえもかなりの移動性を内在していた。このような異なった農業のありかたや、それにともなう生活の組立が、たとえばマレー人は怠け者であるという評価を作り出したりした。
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Contents
1、アジアの中の東南アジア
多様な側面
異質の要素
2、類似のなかの異質
2-1、都市の構造
多民族的構造
2-2、移動性
出稼ぎ
焼畑
3、小人口世界
4、東南アジア型社会
農民と移動
異質への親和性
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