Contents
1.はじめに
2.世俗主義の地域性
3.近代世界における認識論と支配構造
4.ポスト冷戦期における存在論の再浮上:ポスト啓蒙主義時代へ
5.自由の条件としての絶対真理の領域
6.ダルマとリベラリズム
7.ヒンドゥー教における自由
8.ダルマにおける供犠的行為
9.ダルマと現代世界
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8.ダルマにおける供犠的行為
むろんのこと、覚者の喜びを味わうものは、ごく少数に過ぎない。凡夫としてこの世に生きる大多数の我々にとって、ダルマはいかなる意味をもつのだろうか。
ダルマとは、何よりもまず自分の義務を果たすことである。その行為は、自我の欲望を満足させるためにでなく、また共同体道徳への盲目的な追従によるのでもなく、ただ義務を義務として、結果に執着することなく遂行することでなくてはならない。自分の義務とは何だろうか。それは、宇宙および社会における自らの位置付け(これは伝統的インド社会においてはヴァルナ[カースト]およびアシュラマ[人生段階]によって規定された)によって決定される。つまり関係性と共同性のネットワークにおける自己の役割を果たすことによってこそ、ダルマは維持されるのだ。
このダルマの規定する義務は、単に社会的な義務とは異なることに注意を向けていただきたい。それは個我の欲望も共同体道徳も超えた行為であらねば、執着が生まれる。よってダルマが要求するごとく、義務を無執着に果たすためには、自己放棄そして世界放棄のベクトルがぜひとも必要である。これによって、個我は自己の欲望および共同体の抑圧を超出し、自らの存在を絶対普遍との関係において位置付けることができる。このときに個のアイデンティティは、単に共同体内の関係性あるいは差異に解消されることなく、単独的な存在性を獲得することができるのだ。
しかしダルマに定められた自らの義務を遂行するためには、放棄のベクトルだけでは足りない。自らが現世においておかれた位置性を引き受けるという自己受容および世界受容のベクトルもが必要なのである。ダルマを実践しようとする個我は、自己と世界をいったん放棄した上で、絶対普遍とのつながりを保ちつつ、この世において自らが置かれた関係性と共同性を受容せねばならない。そのうえで自己の義務を果たすとき、それは「今、ここ」にありつつ、個我の欲望のためでも、共同体の道徳のためでもなく、ただ自らを絶対普遍へと捧げる供犠的行為となる。これによって自己と世界と絶対は、超越と内在の緊張を含んだ、有機的なつながりを取り戻すのである。我々にとっては、完全な放棄も完全な受容も、実に困難なことであることは間違いない。しかしそれを目指すことこそが、ダルマの実践である。
インド亜大陸南端の カンニャクマリ岬の沖にあるヴィヴェーカーナンダ・ロック。 スワーミー・ヴィヴェーカーナンダは、 近代ヒンドゥーイズムの立役者の一人。 彼はこの岩の上で長時間にわたって瞑想をしたという。
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