Contents
1.はじめに
2.世俗主義の地域性
3.近代世界における認識論と支配構造
4.ポスト冷戦期における存在論の再浮上:ポスト啓蒙主義時代へ
5.自由の条件としての絶対真理の領域
6.ダルマとリベラリズム
7.ヒンドゥー教における自由
8.ダルマにおける供犠的行為
9.ダルマと現代世界
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7.ヒンドゥー教における自由
ダルマが基礎とするヒンドゥー教においては、絶対真理の梵(ブラフマン)は、この世を包摂し超越すると同時に、この世に遍満し内在するものであるとされる。さらにこの絶対真理たる梵は、究極的には我(アートマン)と同一である。これが梵我一如と呼ばれる究極の智慧である。
ヒンドゥー教において、不自由であるということは、自らを究極の真理たるアートマンあるいはブラフマン以外のものと同一視してしまい、そこで生じる欲望に束縛されることである。自由とは、自らを束縛する欲望から解放されることである。それは梵我一如を悟ることによって可能となる。
こうした思想は、自己の欲望を最大限に満たそうとする欲望への自由の考え方とはまったく異なるものである。しかしこのことは、生きる喜びが否定されるということではない。むしろ欲望から自由になったときにこそ、人は全ての苦しみから自由になり、永遠の喜びを味わうのだとされる。覚者は融通無碍、自由闊達に生を楽しみ、しかし倫(のり)をこえないのだ。
オリッサ州クルダ地方マニトリ城塞の寺院にて。 右端が寺院付のバラモン司祭。 ついでジャガンナート神、スバドラ神、バラバドラ神。
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