Contents
1.アイデンティティ
2.自己所有
3.違和感からの出発
4.おわりに
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3.違和感からの出発
私は上でのべたような主体を成立させるメカニズムが現実には作動していないことをのべようとしているのではない。
それどころか、宗教、精神、エトス、生活様式など、自らを自らとしてなりたたせる「文化」的本質を「もつ」ことに自律した集団の成立根拠をもとめる動きは世界のいたるところにみられる。そして、そのようにして構成された集団が紛争、対立、自己主張を展開しているのであり、そのなかでは当然にもアイデンティティという言葉がひんぱんにつかわれている。
それゆえ、アイデンティティという言葉はこうした現象を記述するうえで不可欠のものといえる。また、人々がアイデンティティ・ポリティクス(同一性の政治学)を展開することの背景には、そうせざるをえない状況がある。われわれはそうした背景的な事情をふくめて「他者」を理解すべきある。
しかし、アイデンティティという言葉に対して感じた先ほどの違和感を大切にし、そこから出発することで、アイデンティティという言葉をつかった言語ゲームのなかではなかなか見えてこない現実のさまざまな側面に照明をあてることのできる可能性がでてくる。
われわれはアイデンティティという言葉をつかって自分や自分たちについて語ることがある。だからといって、つねにわれわれは他の何ものにも依存しない、自己充足的で、首尾一貫した主体として自らをイメージしているわけではない。おなじことは「他者」についてもいえるのではないだろうか。
もしそうであるならば、アイデンティティ・ポリティクスを実践し、それをになう主体となっているようにみえる場合でも、それはかならずしも「他者」を一枚岩的に規定しているわけではないことになる。言葉をかえるならば、「他者」の生はそこから「はみだす」部分をふくんでいることになる。
われわれが注視すべきであるのは、こうした部分であり、そこに注目することで、われわれは「他者」が実践するアイデンティティ・ポリティクスを「他者」の生の広がりのなかの適切な場所に、適切なかたちで位置づけることができるようになる。こうして、われわれのアイデンティティ・ポリティクスに対する理解は一歩前進する。
3)東インドネシア・フローレス島中部の 山村にある小学校の教室
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