アジア・アフリカ地域研究情報マガジン:メルマガ写真館
第113回 「メルマガ写真館」
「この家の呼吸がやんだとき」
...稲角暢(アフリカ地域研究専攻)
フィールドを離れて1年も経てば、きっとだれかが亡くなっている―そう予感していたのに、囲炉裏の石がわずかに遺されただけの地面を見て、急に涙がにじんだ。
ホストファミリーの敷地に同居していた老女は、90歳を超えていた。彼女の家には結婚に失敗した60代の息子が2人住んでいて、彼女は息子たちが持ち寄るわずかなお金と、小さなヤギ群で、一家3人を養っていた。朝には、枕元に繋いでいた仔ヤギを放して、わずかな量のミルクを搾り、水で薄めてチャイをつくっていた。遠心力を巧みに利用しながら、筋肉の衰えた腕で鉈を振るい、薪をひきずって歩いていた。破れた化繊布の袋をほどき、その繊維を縒りあわせてロープを編んで、近所の家畜持ちたちに売っていた。夕刻には、店で買った少量のトウモロコシ粉と砂糖を背負って、2㎞にも満たない坂道を休み休み登っていた。
「彼女の家は、遊動生活が盛んだった頃のかたちのままなんだ。いまでは誰もつくらなくなったけどね。」
このみすぼらしい家への蔑みを窺うかのように説明してくれたのは、彼女の甥だった。けれど、強風に骨組みを歪められながらも、この家がひたむきに守ってきたものが、わたしにはいとおしく思われ、いつか自分の家を建てるときには、彼女の家のかたちがいい、とまわりにせがんだものだった。
薄明の冷気のなか、家々の屋根からは白い煙が立ちのぼる。それは家々がはぐくむ生命の存在を、絶え間なく示し続けている。社会全体から見ればけし粒のようなこの家の呼吸がやんだあと、彼女の息子もひとり、後を追うようにして亡くなった 。
[ケニアの牧畜民ポコットの調査地にて]