南アジア地域研究懇話会 インド法典と「法(ダルマ)」の概念の展開 発表者:井狩 彌介 (京都大学人文科学研究所) 日時:2000年6月30日 会場:アジア・アフリカ地域研究研究科 連環地域論講座 講義室 報告:宮本万里 |
ダルマとは、アルタ(実利)、カーマ(愛)と並んで古代インドにおいて追及された人生の3大目的の1つであり、諸社会階層と人生段階の生活規範と定義される。井狩氏の発表は、このダルマ概念の変遷の分析を試みるものであった。具体的なダルマ文献としては、アーパスタンバ・ダルマスートラ、マヌ法典、ヤージュニャヴアルキア法典の3つを取り挙げた。以下にその発表を要約する。 ダルマ文献(法典)はダルマ・スートラとダルマ・シャーストラから成る。ダルマ・スートラは前4世紀から前1世紀にかけて書かれたヴェーダ祭式学の補助文献であり、祭式家たちの日常作法の書である。他方、ダルマ・シャーストラは2世紀から6世紀に書かれたものであり、その内容は狭い祭式学派の作法書から、社会の規範へと拡大している。前者と比べて「法」概念が拡大し、社会統制に比重が置かれている。 ダルマ・スートラの代表例である、アーパスタンバ・ダルマスートラは、ブラーマンについての行為規範を中心に述べている。なかでも家長期についての記述が中心となっており、四人生期の選択と林住期、遊行期の生活規定についての記述は少ない。他の3つのヴァルナについては直接語っておらず、王の行動についても非常に短い記述しかなされていない。それはこの時期、王権が法典の枠外にあったことを示すものである。 マヌ法典については、主に以下の3つの点が指摘できる。第1に、ブラーマンの行為規範が綿密に描かれている点。第2に、林住期や遊行期といった老後の生活についての記述が多少拡大した点。第3に、王の行動についての記述が大幅に拡大した点。特に、第3点に関しては、その背景として、ダルマ思想がしだいに社会規定に重点を置くようになり、それに伴い社会秩序を維持する権力(王権)が重要になったことが挙げられる。 また、王の行動の記述方法については、ブラーマンの行動を記述する方法と同じ手法で書かれており、既成の記述方法で異質なものを取り入れていくというスタイルが見られる。そして、王の行動の記述につながる導入部分に、ブラーマン階級の行為規範が綿密に書かれている点については、法典の作者であるブラーマンの、王権に限定をつけようという意図が見られるのである。 ヤージュニャヴアルキア法典では、司法規定の拡大、重要視が際立っている。この特徴は、これ以降の法典でも引き続き拡大していった。また、王の行動を含む良俗や贖罪規定に関する項目については、古い慣習に倣っているため、大きな変化の無いことが挙げられた。 発表後の質疑応答では活発な議論が行われた。特に、アーパスタンバ・ダルマスートラにおいて、四人生期に関する記述がなぜ少なかったのかという議論や、王権に関する記述が次第に拡大していった背景に関する議論は興味深いものであった。その他、ダルマ法典の伝承方法はどのようなものであったのか、ダルマに優劣はあるのかといった質問も提出された。 古典インド世界に、井狩氏の深い理解に基づく分析を通して触れることができたことは、非常に貴重な経験となった。啓発されるところが大であり、このような機会が再度設定されることを待ち望みたい。 (アジア・アフリカ地域研究研究科) |