時代の容貌、歴史と個人
−Verrier Elwinとインド

2000年2月22日(火)
 



日時:2000年2月22日(火)
会場:京都大学人文科学研究所

 共同研究「西欧知識人のインド体験と近代知の形成」は、COEプロジェクトの一環として行われている(世話人:田中雅一)。今回は、南アジア地域研究懇話会と合同で研究会を開催した。

 ヴェライア・エルウィン(1902-64)はイギリスからインドへ帰化した人類学者である。民族誌や口承伝承の研究に従事し、“The aboriginals”(1943)、“The Muria and their ghotul”(1947)等多くの著作を残した。またトライブ行政にも深く関与した。
 従来のエルウィン評価は、彼が政治と深く関わったこともあり、偏見や錯誤がかなり入り混じったものとなっている。藤井氏は、エルウィンの個人史を4つの期間に分け、それぞれの時期の活動を時代環境とともに詳細に分析し、それによって新しいエルウィン像の提示を試みた。

1期(1902-1927)
 エルウィンはイギリス国教会の家庭に生まれた。オックスフォードで文学学士・神学学士を授与され、聖職者になった。彼には、エリートとして国教会または大学において約束された将来があった。しかし、やがて自らの信仰を問い直すようになったエルウィンは公職を辞し、1927年インドに渡った。

2期(1927-1932)
 この当時、インドでは第二次非暴力抵抗運動が高まっていた。1928年、エルウィンはガンディーに出会い、彼を通じてインド民族運動への支援を積極的に行うようになった。オックスフォード出身の聖職者という立場を利用して、グジャラートや北西辺境州において調査を実施、植民地政府による弾圧の実態を明らかにした。またパテールやバジャージの勧めにより、中央州でトライブへの奉仕活動に従事した。

3期(1932-53)
 第3期は2つの時期にわけられる。中央州で社会活動を行う時期(1932-36)と、学者・行政官としてのエルウィン像が現れる時期(1936-53)である。

 1932年、エルウィンはヨーロッパへ渡った。インド民族運動の支援の為にイギリス労働党などと接触をはかるためであった。この時期、イギリス政府はエルウィンの処分を秘密裡に画策していた。そしてエルウィンがパスポート更新の為に一次帰国した際に、パスポート再発給を拒否した。再発給の交換条件はインド民族運動から一切手を引き、その経緯を公表しないというものであった。彼はこれを受け入れ、中央インドに隠棲した。そして同年12月には国教会から離脱し、1936年にはキリスト教信仰そのものを放棄した。

 これに続く時期、エルウィンは口承伝承の記録を中心とする民族学的調査に従事する。活動はさらに、社会活動からジャーナリズム、トライブ政策・行政理論の構築、行政への関与へと広がっていった。この時期のエルウィンのトライブに対する理念こそが、その後のインド政府の対トライブ政策に大きな影響を与えることになった。しかし独立直後のインドにおける彼の立場は、帰化申請をたびたび拒否されるという不安定なものであった(その後1954年に帰化)。

4期(1953-1964)
 1953年、エルウィンはネルー首相の招聘を受けて、NEFA(North East Frontier Agency: 北東辺境管区)の顧問となった。そして中央州での行政理論を適用し、対トライブ行政、辺境行政において中心的役割を果した。NEFAの所轄地域は、その後東北部一体に拡大し、エルウィンは現在のナーガーランド州やミゾラム州における分離問題、さらにはチベット問題にも関与した。しかし中印国境紛争(1962年)を境として、ネルー体制とその理念は崩壊する。同時にエルウィンもNEFA行政から離脱した。

 エルウィンの活動とその後の評価に関わる問題として、藤井氏は以下の項目を列挙した。
・親ヒンドゥー主義から、反ヒンドゥー主義への移行
・エルウィンにとっての「トライブ」の意味
・フェミニストからのエルウィン批判
また、今後のエルウィン研究の課題として史料、とりわけNEFAに関する史料の公開の必要を強く訴えた。

 発表に続く討論では、開発行政におけるトライブの位置付け、チベットとエルウィンの行政理念の関係などについて質疑応答が交わされた。エルウィンの目を通して、インド現代史の全体像を描こうとする藤井氏の試みには、啓発されるところ大であった。特に、行政の対トライブ政策やトライブの独立運動の分析からは、大きな刺激を受けることができた。


中井昌子 アジア・アフリカ地域研究研究科)
(地域研究スペクトラム第5号より転載)

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