<< フィールドからの絵葉書:東南アジア地域研究専攻

東南アジア地域研究専攻
第1回 杉島敬志:地域進化論講座

To: The Readers of ASAFAS Home Page, JAPAN


stamp
「1983年5月の稲刈。私がいるせいもあって、当時、人々は稲刈のときよく首狩のことを話題にしていた。」
ここ20年ほどフィールドワークをつづけている、東インドネシアのフローレス島中部の調査地をはじめて訪問したのは1983年4月末のことだった。少なくとも2年はそこに滞在し、ぜひとも調査を成功させなければならないという思いが私にはあった。それは博論を数年後に完成させなければならないからではなかった。当時の大学院生にとって博論はとりあえずどうでもよかった。私を一種、切迫した思いに駆り立てていたのは、長期間のフィールドワークの準備のために家族に強いた犠牲だった。今よりも「円」ははるかに弱く、自分のもてるもの一切合切を調査につぎこんで――実際にはそうでなかったにもかかわらず――退路がないかのように感じていたのである。
調査地にはいったのは雨季の終わりかけの時期であり、稲刈がはじまろうとしていた。その頃になると、どういうわけか、フローレスの中部では海の彼方からやってくる異人による首狩が恐れられるようになる。といっても、これはウワサ話にすぎない。首のない死体が発見されたというウワサ話が村から村へと伝えられ、人々は不安と恐怖におののくが、残念なことに、あるいは喜ばしいことに、一度として死体がみつかったためしはない。
調査を成功させるには、何よりも人々との信頼や友情が必要であるというのに、私は首狩をおこなうためにやってきた異人であり、恐れられる対象にすぎなかった。村の入り口に立つやいなや、女たち、子どもたちが悲鳴とともに逃げさるのも口惜しく、残念だったが、男たちも恐怖と疑心暗鬼にかられているのでは調査にならない。また、道をたずねようにも、携えていたものを捨てて相手が逃げてゆくのでは村々を自由に歩きまわることもままならなかった。私は首狩人からの昇格をはたすべく努力はしてみたが、ほとんど効果はなかった。私は暗く落ちこんで、焦燥感のうちにいたずらに時間だけが過ぎさっていくのだった。
From: 杉島敬志 (地域進化論講座)