研究科長あいさつ
message from the dean
アジア・アフリカ地域研究研究科 研究科長
山越 言

私たちASAFASの、いわゆる「川端キャンパス」は、東南アジア地域研究研究所、アフリカ地域研究資料センターとともに、鴨川に架かる荒神橋の袂に位置しています。荒神橋からは、京都北山の山々を背景に、美しい洛北の自然を眺めることができます。いっぽうASAFASの東南アジア地域研究専攻とグローバル地域研究専攻は、百万遍近くの本部吉田キャンパスの中にあり、残念ながらASAFAはキャンパス内で二つに分断されているのが現状です。現在私たちは、ASAFASの3専攻が荒神橋のたもとでひとつになれるように、さまざまな要求、努力をしているところです。
16世紀末の戦国時代、豊臣秀吉が御土居と呼ばれる土塁で京都の町を囲いました。そして、街中から出るための7ヶ所の「口」を設けました。私たちがいまいるこの場所は、荒神口と言われる「口」の一つです。荒神口を出ると、荒神橋を越え、すぐ先に京都の街の北東方向の守りである吉田神社が鎮座します。荒神口はいわゆる「鬼門」となるわけです。道は吉田山の北端から北白川へ、いわゆる山中越えにつながり琵琶湖へと向かいます。
ASAFASに入学する学生さんの多くは、アジア・アフリカ地域の研究のため、世界各国に旅立ってフィールドワークを行います。ASAFASは、そんな学生さんたちの旅立ちを支援する「口」、京都と世界を繋ぐゲートウェイでありたいと望みます。この荒神口の川端キャンパスで学んだ学生さんたちは、京都から外の世界へ、鬼が待つかもしれない過酷なフィールドワークへと旅立ち、大きな成果をこの京都に持ち帰ってきてくれます。京都の長い歴史との深い因縁を感じざるを得ません。
荒神橋と地域研究との因縁について、もうひとつ印象深い逸話があります。いまからほぼ百年前、京都の西陣で育ち、当時の京都一中、第三高校で学んだ一人の少年がいました。彼は、近衛の一中への通学路であった荒神橋から友人らと北山の峰嶺を眺め、地図を片手に北山登山の着想を得たといいます(斎藤編1994, p38)。今西錦司というこの少年と友人らは、中学時代に「山城三十山」登頂を成し遂げたのを皮切りに、戦前の朝鮮半島、南洋諸島、満州、内蒙古での探検や人類学的総合調査調査、戦後にはヒマラヤでの学術探検や登山活動、 ニホンザル研究からアフリカでの類人猿、化石人類、狩猟採集民研究へと、その活動を展開し、いま「探検大学」とも呼ばれる京都大学の海外調査の伝統を造り上げました。彼もまた、鬼門の荒神橋から北山を眺め、ヒマラヤへ、アフリカへと旅だったのです。
次のフィールドワークへの旅立ちの前には、荒神橋から北山を眺め、私たちの先輩が築き上げた地域研究の歴史に思いを馳せてみたいものです。
(参照)斉藤清明(編)1994『今西錦司初期山岳著作集 初登山』ナカニシヤ出版
(2024年4月)