アフリカの中央、コンゴ盆地を埋め尽くす熱帯林のもと、今なお狩猟採集生活を送る森の民が暮らしている。彼らは、“ピグミー”と呼ばれる狩猟採集民である。身長は150センチメートル程度という小人のような体つきに丸い童顔。ゴリラやチンパンジー、ゾウやカモシカ、ワニなどさまざまな動物が息づく森の世界で、のびやかに日々の生活を営んでいる。彼らが森から授かっているのは、食物や薬だけではない。お皿や蒸し器などの調理具から椅子やベッドなどの家具、そして小枝とマランタセイの大きな葉でできた小屋にいたるまで、森の動植物に深く依存している。また、彼らの歌と踊りは卓越しており、日が沈み森に囲まれた小さな村に月が顔を出す頃、子供たちははじけるように踊りだす。時ににぎやかな宴は朝まで続くこともある。
午後のキャンプ |
1998年の夏休み、大学の図書館で私は一冊の本に出会った。市川光雄先生の「森の狩猟民」である。そこには、旧ザイールの東部イトゥリの森で暮らすピグミー系の狩猟採集民、ムブティの生活世界がいきいきと描かれていた。以前より先住民の自然観に関心は持ってはいたが、今もなお狩猟採集に励み、自然の流れに同調するように暮らしている人々がいることに心打たれた。今こうして私が本棚に囲まれた薄暗い空間に存在している瞬間、はるか遠くアフリカの熱帯林に暮らす“ピグミー”の間でも同じ時間が流れていると思うと不思議と胸が踊ってくる。先進国が頭を抱え込んでいる環境問題などと無縁であるかのように、自然とうまく付き合っている人々に会いたい。その日から、私の中に森の民“ピグミー”が棲みついた。
2000年11月中旬、私はピグミー系の狩猟採集民であるバカの調査を行うために、カメルーン共和国東南部の熱帯雨林地帯に足を踏み入れることとなった。先輩の小松さん、平澤さん、そして同級生の四方さんと共に山のような荷物を車に積みこみ、カメルーンの首都ヤウンデを出発した。3時間もすると舗装道路は終り、乾いて洗濯板のようになった土の道が待っていた。絶え間の無い振動に耐え車窓に眼をやると、道路沿いに並ぶ土壁の家々やヤギやニワトリ、ブタなどの家畜、集会場でおしゃべりに興じる男たちや洗濯に励む女たちの様子が、一枚の長いフィルムのように続いている。次々と繰り広げられるシーンに目を奪われている間に、10時間のドライブを終え東部州のミンドゥル村まで到着していた。
森のキャンプへと続く道 |
ミンドゥル村にはカトリック教会があり、日本人の末吉シスターが働いている。シスターの好意で教会の隣にある部屋に泊めてもらった。夕食を済ませた後、部屋へ戻るために草むらを歩いていた。ふと見上げると、空には無数の星が輝き、地上には村人たちによって灯された炎が揺らめいている。ヘッドライトを消すと、車でひた走り続けてきた土の道が夜空の光に照らされてぼんやりと横たわり、その道を覆うかのように、黒々とした森がどこまでも広がっている様子が見えた。「とうとうアフリカやな。」「うん。」同級生の四方さんと私は体がひんやりとするまで森の世界に見入っていた。
霧雨けむる朝の道 |
「いつ狩猟に行くの?」「いい頃合に」…バカと私の間でさっきから何度このやりとりがなされているだろう。のんびりと村で過ごすバカの観察だけでは飽き足らず、村から10キロ程度の距離にある森の狩猟キャンプに泊りがけで来たものの、かすかに火の残るいろりの傍からいっこうに離れようとしないバカの男たちにしびれを切らしていた。言葉に自信のない私は、私の意向が伝わっていないのではと心配になり何度も何度も狩猟に行きたい旨を伝えた。しかし、私の声が聞こえていないのではと思うほど彼らに反応はなく、ただただいろりの残り火をぼんやりと眺めている者、タバコをゆっくり吸う者、ムシロに寝転がる者、それぞれに時間を過ごしている。私がため息交じりに眼を閉じたとき、一番年長のジャンコボという男が立ち上がった。
さつまいもの皮をむく女 |
まず狩猟地を探すために、狩猟キャンプの周りを歩き回る。何度も転げそうになりながら、藪を掻き分け緩やかな傾斜を下った。湿地では膝までドロドロになり、小川はカバンを頭にのせてジャブジャブ渡る。大きな流れでは手をひいてもらい、ゆっくりゆっくり丸太を超えた。気が付けば、のろまな私と子守り役のジャンボスコはずいぶん後ろを歩いていた。遅れをとりもどそうと、慌てて木の根にひっかかり転びそうになる私に、“テロリ テロリ(ゆっくり、ゆっくり)”と言うジャンボスコの声が森に響く。すると、どこにいるのだろう、バカたちの笑い声がする。姿のない笑い声はまるで森が笑っているみたいにも聞こえる。
結局、その日はさんざん歩き回ったにもかかわらず獲物は無く、収穫物はココという食用の葉とサファという野生のヤムイモ、そしてエビやカニなどだった。1日中道無き道を歩いたこともあり、ずいぶん疲れていた。帰り道、行きも苦戦を強いられた湿地にさしかかった時のこと。自由の利かない足元に不機嫌になった私は、強引に足を進めようとした。その瞬間、前のめりに泥の中にひっくり返った。ジャンボスコが渡してくれた棒でなんとか体勢を立て直したが、体中泥まみれ。顔にまで飛び散った泥を汚れていない服のはしで拭いながら、情けない気持ちにつぶされそうになった。“テロリ(ゆっくり)”前方からジャンマリが言った。次の瞬間、ズルッという鈍い音と共にジャンマリがひっくり返った。森の民でもひっくりかえるんだ。ジャンマリには申し訳無いが、おかしさと安堵で笑いが止まらなくなった。ひとしきり笑い、“テロリ(ゆっくり)”とジャンマリに向かって叫んだ。ひっくり返ったジャンマリもみんなも私も笑った。湿地を抜けほっとしていると、ジャンマリが私を呼んでいる。高木の生い茂る薄暗い空間に射し込む木洩れ日に夕暮れの気配を感じながら、落葉の上をザクザク歩いていくと、大きな倒木に隠れるように小川が流れていた。水際の葉をコップにして水を飲んでいるジャンマリに近づくと、彼は私の足元にかがみこみ私のズボンや靴の泥を丁寧に水で流してくれた。言葉が出ない。やっとありがとうを言うと、ジャンマリは照れたように笑った。
水浴びする子供たち |
その夜、テントの中で森に響く動物たちの声を聞きながら、昼間の様子を思い出した。大木に軽々と登り川をさっそうと渡るバカの森でのエレガントな身のこなしや、ゴリラが好きな実やセンザンコウの巣穴を教えてくれるなど動物や植物についての博学ぶり。せっかちでその上不器用過ぎる私への気遣い。そして、夕食を終え、森がひんやりとした空気に包まれる中、オレンジ色の火を囲みジャンコボから聞いた「ゴリラはナイフを持っている」というウソか本当かわからないような話。きっと、森はたんに物質や食糧の供給源だけでなく、バカの心とも深くつながっているのだろう。キャンプはいろりの火も消え、眠りに落ちようとしている。森の奥へと続く漆黒の闇からは、時おりキュイーン、キュイ−ンという動物の鳴き声がする。ホタルが淡い光を放ちながら私のテントの前をゆっくりと横切った。今ごろバカはどんな夢を見ているのだろう、あれこれ想像しているうちに、私も眠れる森に連れ去られていた。